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【居合】第2回「武士は刀を抜けなかった!」

「居合」や「剣術」が流派として確立したのは室町時代です。特に戦国時代という世の中を背景にして多くの流派が始まりました。無雙直傳英信流居合術は、林崎甚助源重信(1542~?)を流祖としています。彼が生きた時代というのは、ちょうど、織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦いの頃となります。居合が後の世まで伝わる流派として完成されたのは江戸時代です。

 

「居合」と「剣術」は何が違うかというと、「居合」は鞘に納まった刀を一瞬で抜いて相手を斬る技術であるのに対して、「剣術」は刀を鞘から抜いた後に刀で相手と戦う技術だということです。「居合」の完成は、何故江戸時代なのでしょうか? 今日はこれがテーマです。

 

先ず、映画などの時代劇の場面でよく観る「無礼打ち」について話したいと思います。演劇の世界では、その後のストーリーを面白くするために悪い侍が百姓や町人を気まぐれに斬る場面があります。しかし、実際の武士にはそのようなことは許されるものではなかったのです。

 

本題に入る前に少し言葉の整理をしておきましょう。ここで「侍」と言ったり「武士」と言ったりしていますが、そもそもどう違うのでしょうか? 或いは「もののふ」という呼び方もあります。

 

「武士」は音読み、「侍」「もののふ」という言葉は大和言葉です。

「もののふ」というのは大和朝廷に仕えた豪族であった物部(もののべ)氏からきているそうです。もともと物部氏は朝廷の武具、警察、軍事を司る役職であったことから、「武人」を指す言葉として用いられるようになりました。「侍」は貴人の側に「さぶらふ」者、貴人の警護を仕事にしていた者の呼称がその発祥だそうです。「武士」は、そもそもの語源は古代中国まで遡ることができますが、それぞれ意味において同じです。

 

統一された使い分けを定義することは難しいですが、過去の文献等の傾向をみると、「武士」は士農工商など、特に社会的階級を表し、「侍」はその者が個人として自分の立場を表現する場合に多いと思います。「侍の意地」などの使い方です。「もののふ」は「もののふの情」「もののふのあはれ」など武士の心を詩的に表現するときに多く使われるようです。

 

さて、戦国時代を経て、徳川の時代となり武士はいわゆる戦士の側面から行政官、司法官といった社会を治める為政者としての側面が強く要請される立場となりました。武士はその意味で大きな権力を持ったわけですが、権力を持った以上に大きな義務を負っている存在でありました。それは、一言でいえば「人の上に立つものとして範となる存在」でなければならない、もっとわかりやすく言えば「武士として生きなければならない」ということです。

彼らは、武家諸法度や藩法などの武家法に拘束されるとともに、「武士道」という不文律に常に規律され、廻りから監視される存在でありました。その彼らが、「気まぐれに刀を抜いて」民百姓を斬るなどいうことが許されるはずもありません。もしそのような振る舞いがあれば、「御家断絶」や「切腹」まで覚悟しなければなりません。武士は、百姓町人以上に「刀を抜くことはできなかった」存在であったといえます。因みに、刀の所持についてですが、武士だけに認められたものではありませんでした。刃渡り二尺未満の脇差などは、旅の護身用などとして一般に所持は認められておりました。

 

武士は「刀を抜くことはできなかった」と言いましたが、「大きな権力」を持つと同時に「大きな義務」を負った存在でした。従って、「抜くことはできなかった」。しかし、義務として「刀を抜かなければならない」場合がありました。それも「武士として」という強力な規範的側面を伴っております。私が居合の流儀の先輩から聞いた話や歴史を検証した結論として次の原則に行き着くと思います。

 

「武士が刀を抜かなければならない」場合とは、原則的に三つあります。

即ち、(1)「上意討ち」。これは藩主から「打てと命じられた場合」です。武士はそもそも主君に仕える戦士であって主君から「戦え」と命じられれば「刀を抜いて」戦わなければなりません。

次に(2)「仇討」です。但し、これは藩から許可を得て行われなければなりません。余談ですが、藩から「仇討」の許可を貰ったらならば、仇討を果たすまで国許へ帰ることは許されず、ましてや藩から資金援助もありません。非常に大変なことであり、多くの悲劇を生みました。

最後は、(3)「介錯」です。「介錯」は、ご存じの通り切腹する侍の苦痛を速やかに終わらせるために首を斬ることです。切腹する場合、この侍は信頼できる友人や剣の師匠に介錯をお願いしておりました。

 

「介錯」というのは大変難しいもので、私の流派でもその型が伝わっておりますが、頸椎を切断して首の皮一枚を残して斬ることが求められました。しかし、実際にはほとんど切断していたようです。切腹という、いわば武士としての最後の名誉を守る場に臨んで、冷静に事を遂行するというのは極めて優れた技術と胆力が要求されます。何故ならば、介錯を失敗し、肩や頭に刀を打ち込み、切腹する侍を苦しませ、最後に無様な醜態を晒したとあれば、この介錯をした侍も末代まで汚名を着ることになるからです。従って、その後、介錯は専門家に任せる傾向になっていきます。

 

話はそれますが、「首切り浅右衛門」で有名な山田浅右衛門という人がおりましたが、彼は徳川将軍家の「御様御用」でした。これは「おためしごよう」と読みます。将軍家の為に刀の切れ味を試す役職です。死んだ罪人の胴体を重ねて何人切断できたかによって、刀の切れ味を試したのです。その一方で、山田浅右衛門は副業として切腹の介錯や罪人の斬首を請け負っており、侍の多くがお金に困っていた時代に、代々大変裕福であったそうです。江戸時代最後の山田浅右衛門(名前を世襲しています)が、人生において初めて斬首する時に、「手足が震え、気も動転して頭の中が真っ白になった」と述懐している記述を読んだことがあります。介錯は代々のプロでも難しいものだったのですね。

 

さて、話を戻します。以上が「武士が刀を抜かなければならない」原則ですが、原則があれば、当然ながら例外があります。どのような場合だと思いますか?

 

答えは、「相手から斬りつけられた場合」です。

侍が刀で斬りつけられた場合、刀も抜かずに一方的に斬られた。ましてや、逃げようとして背中を斬られて死んだとあれば、武士として不名誉極まりないことになり、末代までの恥となります。

 

ここでまた余談ですが、「忠臣蔵」で有名な「松之廊下刃傷事件」の際、浅野内匠頭は吉良上野介に対し江戸城松之廊下にて刃傷に及び、浅野は即刻切腹、御家は断絶となりました。その後、家臣の赤穂浪士によって吉良は討ち取られましたが、その際の幕府の対応について、林大学頭の「あっぱれ義士である」との意見と、柳沢吉保の師であった荻生徂徠との「確かに義はあるが所詮は国法を犯した徒党にすぎない」との意見が対立し、最終的に赤穂浪士に名誉の切腹の沙汰を下したということは皆さんご存じのことと思います。

 

さて、その後の吉良家はどうなったかご存じでしょうか? 吉良家は御家断絶となっています。その理由は、そもそもの松の廊下で「武士たるもの、その場において斬られた挙句、刀も抜かず逃げたことが、あってはならないこと」とされたのでした。

 

話を戻します。武士は敵に不意に斬りつけられれば「刀を抜かなければならない」のです。相手がたとえ上意討ち、即ち藩主の命令で来ようが、武士として立ち向かわなければならなかったのです。介錯は別として、武士が「刀を抜かなければならない」場面のほぼ全てと言っていい場合というのは、「上意討ち」と「その反撃」ということになります。即ち、どちらも「刀を一瞬に抜いて相手を斬る」場合だということです。私の流儀の居合の型も介錯以外全てその想定となっています。

 

江戸時代の侍にとって、「剣術」の場面よりも、実は「居合」の場面を想定した技術の習得が必要だったのです。「居合」は脇役などではありません。寧ろ武士にとって主役の武術だったのです。

⇒【居合】第3回へ続く